23/07/2025

キリスト

 「キリスト」はヘブライ語の「メシア」に対するギリシャ語の称号で、「油注がれた者」という意味です。


旧約時代のイスラエルの民にとって、「油注ぎ」は神が特別に聖別された者――すなわち預言者、祭司、王であることを公に人々の前で確認する儀式でもあり、また神ご自身がその者を任命される就任式のようなものでした。この油注ぎに使われた油は、主にオリーブ油でした。


預言者エリヤは神の命令を受けてハザエルに油を注ぎ、アラムの王とし、またエフーに油を注いでイスラエルの王とし、さらに自分の後継者としてエリシャにも油を注ぎました(列王記上19章15~16節)。


預言者サムエルもまた神の命を受けてイスラエルの王を立てる際、サウルに油を注ぎ(サムエル記上10章1節)、さらにダビデにも油を注いで将来のイスラエルの指導者として備えました(サムエル記上16章12~13節)。


サウルが死んだ後、ダビデが王位につく際にも油注ぎがなされ(サムエル記下5章3節)、ソロモンも王になるときに油を注がれました(列王記上1章39節)。


このように、特定の使命に任命された者たちには油が注がれましたが、その働きは定められた期間に限られ、彼らは「メシア(油注がれた者)」としてその期間活動しました。


ユダヤ人にとってのメシア思想は、祭司・預言者・王という意味を超えて、権威と栄光を持ち、すべての国々を支配し、ユダヤ民族をすべての国民の上に立たせてくれるメシアのことでした。


預言者ダニエルは「油注がれた者(メシア)、すなわち王」が現れると預言しました(ダニエル書9章25節)。そのメシアこそがイエス様です。


イエスご自身も、油注がれた者(キリスト)であることを明らかにされました。イエスが育ったナザレにて、安息日に会堂でイザヤ書を朗読された時、引用された箇所はまさに油注がれた者に関するものでした。


ルカの福音書4章18~21節

「主の御霊がわたしの上におられる。それゆえ、主は貧しい人々に福音を伝えるために、わたしに油を注がれた。…それを聞いた人々に、イエスは言われた、『この聖書の言葉は、今日あなたがたが聞いたときに成就した』」


また、サマリアの「スカル」という町の井戸のそばで出会った女性との会話の中で、サマリアの女が「メシア(すなわちキリスト)と呼ばれる方が来られることを知っています。彼が来れば、すべてのことを私たちに知らせてくださるでしょう」と言ったとき、イエスは「あなたと話しているこのわたしが、その者です」と言われました。これは、イエスが預言者たちが語り、ユダヤ人たちが待ち望んでいたメシアであることを明言された瞬間です。


イエスのご誕生の数十年前からローマによって圧迫され、重税に苦しめられていたユダヤ人たちが待ち望んでいたメシアとは、ローマの支配から解放し、税の負担を軽くしてくれる政治的なメシアでした。そのような思想の影響は、イエスに従っていた弟子たちの中にもあったようです。


イエスが復活された日、エマオへ向かう途中の2人の弟子は、復活されたイエスに別の姿で出会った際、「私たちはこの方こそイスラエルを贖う方だと望んでいました…」(ルカ24章21節)と語り、またイエスの昇天の際にも「主よ、今こそイスラエルの国を回復される時なのですか」(使徒1章6節)と尋ねました。


使徒たちは最初、イエスを政治的解放者としてのキリストだと理解していましたが、後に、罪の奴隷となっていた霊的なイスラエルの民を解放するために来られたキリストであることを悟りました。そしてキリストは、人の姿を取って地上に来られた神ご自身であることを理解しました。


使徒トマスは、イエスが復活された日にその場にいなかったため、復活を信じられずにいましたが、数日後に現れたイエスを見て「わが主、わが神よ」(ヨハネ20章28節)と信仰を告白しました。使徒ヨハネも、イエスについて「この方はまことの神であり、永遠のいのちです」(ヨハネ第一5章20節)と述べています。


ある人はイエスをただの人間として、またある人は預言者として、ある人は神のしもべとして、またある人は神の御子として知っていました。しかし、キリストを完全に悟った者たちは、イエスこそ人の姿を取って来られた神であると語りました。


使徒パウロも、コロサイの信徒への手紙の中で、見えるものも見えないものもすべて創造された方がイエスであると教えました(コロサイ1章13~18節)。


神がこの地に来られる時、人と同じように肉体を取って来られたことによって、真に神を信じる者とそうでない者とを区別されました。「その名を信じる者には、神の子どもとなる権利が与えられた。それは血によらず、肉の欲によらず、人の意思によらず、ただ神から生まれた者である」(ヨハネ1章12~13節)。これはキリストの神性を悟ったヨハネの信仰です。


キリストの中には、知恵と知識のすべての宝が隠されています。彼を受け入れる者は、永遠に渇くことがなく、永遠の命の泉を見出す者です。


「わたしが与える水を飲む者は、決して渇くことがない。その人のうちで、その水は永遠の命に至る泉となる」(ヨハネ4章14節)と語られたそのキリストが、終わりの日にもまた叫ばれます。


ヨハネの黙示録22章17節

霊”と花嫁とが言う。「来てください。」これを聞く者も言うがよい、「来てください」と。渇いている者は来るがよい。命の水が欲しい者は、価なしに飲むがよい。

御霊と花嫁を知り、受け入れることが、永遠の命への第一歩です。



https://youtu.be/4m5M8K6acb0?si=EIAd0bjSs3CRC1RI








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